いろいろ明けました。


敬老の日に、祖母を描きました。去年は多少デフォルメを効かせたカラーイラストだったので、今回は写真見ながら人物デッサン風に仕上げました。時間もなかったし、出来としては60点ぐらいですかね・・・
久々にデッサンしたけど楽しかった。漫画もこのぐらい集中して書ければいいのだろうけど(;^ω^)そういえばNHKの漫勉の池上遼一の回観たけど、下書きがデッサンしてるみたいで気持ちよかったですね。あんなにしっかり書き込んだら消しゴムかけるとき残念にならないのかなぁ・・・なんて思ってましたw
社会人として北海道に旅立つ前まで実家で同居していた祖母。子供の頃、落書き用に新聞の折込チラシをまとめて引き出しに入れてくれていました。実は今でも引き出しの中に紙があるという・・・。米寿を迎えて、最近は体調もコロコロ変わって心配です。
祖母に対する恩返しとしても何とかして漫画家になりたいという想いもあります。母方の祖母が今年の初めに亡くなったこともあり、焦りの色を隠しきれない。どうか長生きしてください!


お久しぶりです。
2年前に旧ブログで書いた記事ですが、5月中旬に祖母が亡くなりました
近年は横になることが多く、痴呆も進んではいましたが
昨年卒寿を迎え、年相応だと思っていたし、
お正月過ぎたあたりに帰郷した時には
一日は普通に食卓も囲んで、普通に会話もできていました。
昨年11月のペースメーカーの交換から、
今年1月には白内障の手術と入院が続いた上に
3月頃に家で転けて以降、いっきに体調が悪化したみたいです。

4月には熱と膝の痛みがあり、
検査結果が分かるまでの4、5日の簡単な入院の予定でしたが、
痛みも取れてきて退院直前という時にもどし、点滴、絶食となり退院が伸びました。
そのあたりで東京に離れ住んでる自分のことを気にかけ
世話する母にどうしているのかと聞いていたみたいで、
夏にある祖父の三十三回忌まで帰るつもりが無かったのですが、
「そろそろ顔出さないといけないかな?」と思い、
ゴールデンウィーク後半ちょうど三連休ができたので帰郷しました。

祖母も退院してきたタイミングで家に戻ってきていました。
ずっと寝たきりで、会話は全くありませんでしたが、
「ただいま」と声をかけると力なく微笑み返してくれました。
体中に痛みがあるようで、さすがに弱ってると感じていましたが、
週に何日かは老人ホームに行って体を動かしていて
お粥などの食事も取れていたので、
まさかこんなすぐに亡くなるとは考えてもいませんでした。
なので三日間実家に居ましたが、普通に外出しましたし、
実際に顔を合わせた時間は合わせて3分あったかないかです。

それから一週間の出来事でした。
東京に戻って三日後に食事も水も喉を通らなくなり入院。
点滴治療が始まりましたがその翌日の夜に下血、血圧が低下し
病院から両親に呼び出しがありました。
朝には一度持ち直し、心配になり母に連絡。
親族一同が見舞いに訪れていると聞き、
深刻な事態であると改めて認識しますが、
「先日あったばかりだし、どうなるかも分からないから」と
戻ってこなくてもよいと父から連絡があり
その日、休日であったにも関わらず、
自分は東京から一人ただ祈ることしかできませんでした。
その祈りも虚しく父が見守る中、翌未明に息を引き取りました。
最後の入院からわずか3日でした。

東京行きの連休最終日の朝に「また夏の法事に戻る」と言ったのが最後でした…
半目でどこか遠くを見るような顔が今でも生々しく思い出します。
奇しくも祖母に会う前に一人で墓参りに行っていました。
御朱印集めに目覚めて、
偶然、目的の神社の近所に家のお墓があったのでついでに行ったような
あまり褒められる行動では無かったのですが、
その頃祖母が死ぬとはまったく思ってなくて、ただ回復を祈りました。
結果としてはお墓にいる祖父を
祖母のお迎えのために連れ帰ったような形になりました。

祖母にとって子、孫、ひ孫と子孫には恵まれていたと思いますが、
60手前で早くに愛する夫を亡くし、33年間寂しい思いをしてきたと思います。
祖父と会って、安らかに不安なく旅立ったのであれば良いのですが、
あの時墓参りすべきだったのか?
帰郷の際もっと近くにいてあげられたのではないか?
下血した段階で実家に飛んで帰るべきだったんじゃないか?
いろいろと後悔は付きません。

自分の都合で京都に帰らず東京で一人暮らしを決め、
祖母のことは一切考えていませんでした。
実家に戻り、家のあとを継いで会社に入ることが
最大の親孝行であり祖母孝行である事は分かっていましたが、
皆、自分の夢を理解してくれて、
祖母も意識してアニメなど見たり、応援してくれていました。
東京に越してから実家に帰り親戚連中と会うことが辛かったですが、
祖母だけはそっと見守っていてくれる存在でした。
結婚してひ孫を抱かせる事ができるとまで考えていたわけではないですが、
もっと生きるものだと勝手に楽観的に考えていました。
マンガ家になるのが孝行だと書いていましたが、
祖母と晩年を一緒に過ごせなかった事に見合うだけの
行動、実績を残せたのかと考えると自信がありません。

自分にとっては本当に優しいおばあちゃんでした。
手袋や帽子を編んでくれたり、
つい最近まで、昔の戦前、戦中のことから
新しく生まれたひ孫の誕生日まで覚えるなど記憶力がよく、
ボケ防止としてクロスワードを率先してやるなど尊敬に値する人でした。
生まれてから社会人になるまでずっと共に暮らし、
いろんな場所に家族旅行にも行きました。
足が悪く、よく車イスを押させてもらいましたが、
最後の方は家にこもりがちでした。
別々に暮らす様になってからは
帰郷すると必ず母と一緒に祖母を囲んで
持ち帰った土産をお供お茶して談笑した事が昨日のことのようです。

長年生活を共にした家族を失った悲しみは想像以上に深かく
6月中旬には大阪北部地震が発生し実家も大きく揺れ、
いろいろと精神的にぐらつきやすい時期が続き、
ブログもお休みせざるを得ませんでしたが、
初七日、三七日と時が過ぎる事で気持ちの整理もつき、
関東で梅雨が明ける頃、祖母の四十九日法要も終わり忌も明けたので
今日から切り替えていこうと思います。
天に昇った祖母に対して何ができるか何をすべきなのか
少しずつ考えていきたいと思います。
あの引き出しは今もそのままです。

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