鳥山明は『ドクタースランプ』に続き『ドラゴンボール』を連載し、
テレビアニメも大ヒット、現在世界で最も著名な漫画家と言えます。
DRAGON BALL モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
尾田栄一郎や岸本斉史など
現在の少年誌の格闘漫画は少なからず鳥山明の影響を受けます。
鳥山明が週刊少年ジャンプに連載していた
80年代後半から90年代前半の時期はちょうどジャンプ黄金期と重なります。
そもそも少年ジャンプがどういう雑誌だったかを把握してないと
黄金期の全貌が見えてきません。
各出版社が週刊漫画誌の発行部数で凌ぎを削ていた時代。
小学館や講談社などの大手出版社は大御所漫画家で連載枠が独占され、
新人漫画家の出る幕はありませんでした。
この受け皿となっていたのが手塚治虫が創刊したCOMでしたが、
1973年に虫プロの倒産とともに廃刊となってしまいました。
こうした流れの中で1975年に同人誌即売会コミックマーケットが生まれますが
まだその規模も現在ほどではなく、
多くの漫画家志望者にとっての希望は少年ジャンプという新興雑誌でした。
1968年に集英社から創刊された少年ジャンプは後発故に
大御所漫画家の連載を獲得できませんでしたが、
それを逆手に取り新人作家を積極的に起用しました。
永井豪や本宮ひろ志など戦後第二世代と呼ばれる作家を輩出し、
70年代後半には小林よしのりやゆでたまご、諸星大二郎がデビューします。
どちらかといえば画力はあまり重視されず、
『はだしのゲン』や『ハレンチ学園』が連載されるなど
他誌では載らないようなマニアックな作品。
革新的で挑戦的な作品が多く、なんでもありの雑多とした雰囲気がありました。
また賛否ありますが、読者アンケート主義と呼ばれる編集方針によって
大御所漫画家であっても不人気であれば容赦なく早々に打ち切りにし、
常に一定の新人枠を確保する事ができました。
こうした環境であったからこそ
ジャンプから多くの飛び抜けた才能が生まれたとも言えます。
ジャンプの黄金期には鳥山明の『ドラゴンボール』だけでなく、
ゆでたまご『キン肉マン』高橋陽一『キャプテン翼』
武論尊・原哲夫『北斗の拳』車田正美『聖闘士星矢』
北条司『キャッツ・アイ』『シティハンター』
冨樫義博『幽遊白書』井上雄彦『スラムダンク』
などなど錚々たるラインナップであり、最高発行部数を更新し続けます。
鳥山明を後継者と呼んでいた
漫画の神様、手塚治虫は1989年に60歳で死去しますが、
少年ジャンプの勢いは止まらず、
1995年についに653万部の歴代最高記録を達成しました。
これは週刊漫画誌時代の最盛期でもあります。
最盛期があるということは衰退期があります。
『ドラゴンボール』や『スラムダンク』という看板作品の終了によって
発行部数は減少に転じました。
その後も『ONEPIECE』や『NARUTO』などヒット作はありましたが、
90年代後半からゲームやインターネット、携帯電話が普及し、
娯楽の幅が広がったことにより、漫画雑誌はかつての勢いを失いました。
各出版社は新しい雑誌を創刊しては廃刊を繰り返し、
単行本の売り上げが漫画家の支えになっていきました。
手塚治虫が切り開いた週刊漫画誌の歴史ですが、手塚の死後、
大友克洋はAKIRAのラストページで作品を手塚治虫に捧げると書き、
鳥山明は手塚治虫の後任としてジャンプの手塚賞の審査員となりましたが、
手塚治虫がアニメなど多方面に活躍しつつも
漫画家として生涯現役を貫いたのに対して、
大友克洋は石ノ森章太郎原作の劇場アニメ「幻魔大戦」の
キャラクターデザイナーとしての参加から徐々に活動の場をアニメに移し、
「AKIRA」の劇場アニメの大ヒット以降は映画監督として活躍しており
鳥山明もドラゴンボール連載終了後は寡作になっていき、
ドラクエシリーズなどゲームの
キャラクターデザイナーとしての露出が多くなりました。
一方で急成長を続けていたのは二次創作を中心に盛り上がりを見せた
コミックマーケットなどの同人誌即売会で
漫画誌が低迷する中で新人漫画家の新たな登竜門となっていきました。
そのコミケから生まれた一大ジャンルがBL(ボーイズラブ)です。
源流は少女漫画で活躍した竹宮恵子、萩尾望都ら24年組にさかのぼれますが、
現在、本屋で普通に売り場が設けられるまでのジャンルに至るのに
決定的な役割を果たしたのがコミケで育まれたやおい文化です。
『キャプテン翼』や『聖闘士星矢』などの少年誌における
少年同士の友情を曲解し、妄想を膨らませた男性同性愛同人誌が生まれ、
そうしたコミケ作家を抱えた女性向け男性同性愛総合誌JUNEが
1978年に創刊され商業誌として広く世に浸透し、
90年代にかけてBLというジャンルを形成していきました。
これは24年組以来の少女漫画の大きな変革でもありました。
手塚治虫も晩年、コミケ参加を検討していたそうです。
若者がマンガを使って自己表現するコミケ文化に注目しており、
大友克洋のデッサン力に打ちのめされた反動もあって、
手塚自身の「マンガ記号論」を確立していくことになります。
手塚治虫の最後の遺志は
コミケなど同人界隈に残されたと言えるかもしれません。
コメント